死ぬ こと と 生きる こと

発行者: 26.03.2020

宮沢賢治 はカメラマンだと言ったのは草野心平だった。羅須地人協会に無一文裸一貫で飛びこもうとした草野らしい言い方だ。詩人にして賢治のシンパサイザーならではの炯眼だった。  新宿に「学校」というバーがあって、そこは心平さんを中心にした「歴程」の詩人たちの溜まり場だったのだが、そこで賢治について心平さんや宗左近や高内壮介さんと雑談したことがあった。心平さんはその夜は上機嫌で胡麻塩頭をなでながら、ハハハ、君はまだ宮沢賢治を読んじゃいないんだよ、あれはね、縄文以来のカメラマンなんだよと、ぼくの質問を一笑に付した。  その賢治を昨夜に綴って、ぼくはちょっと茫然としたままである。一夜をおいてもなんだかまだ目の中が霞んでいる。またまた風邪がぶりかえして、微熱のままに綴っていたこともあるだろうけれど、それよりもやはり賢治の未到の深さに入って、まだステーションに戻れないというのが正直なところだ。  こういうときはどうしたらいいのだろうと思いながら、ああ、そうだ、北の人の続きは北の人がいい、それなら鈴木牧之や吉田一穂、北欧のカール・ブリクセンや『トナカイ月』のエリザベス・トーマス、あるいは山形の土門拳か秋田の土方巽だろうと思いはじめた。  青森の 太宰治 や 寺山修司 も視界に入ってくるけれど、二人はすでに採り上げたし、『北越雪譜』ではまだ早く、一穂の『古代緑地』や土方の『病める舞姫』は別の日にしたい気分だ。それにやはり日本人がいい。そこで土門拳をこれから書くことにする。まさに縄文以来のカメラマンの本物だ。.

番外録 夜 レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』. 西芳寺庭園書院前 四半石.

ぼくは、昭和16年に32歳の土門が文楽を撮りはじめたことに、いろいろな意味で感服している。新橋演舞場が皮切りだった。  まず、昭和16年という時代情勢だ。日米が開戦した年である。こんな時期に土門は文楽にこだわった。次にこのさなか、よりによって文楽を選んだことだ。たんに選んだのではなく、人形浄瑠璃というものだけを選び切った。いまでは歌舞伎も文楽も能も茶の点前も、なんでも適当に写真になっているからべつだん驚かないだろうが、この時期に報道写真家集団を出身した写真家が、わざわざ被写体としては退屈至極な文楽を選んだことは、とても恐ろしい。それも、動いてなんぼの文楽をモノクロームに止めてしまうのだ。しかも、注文で撮ったのではない。誰から頼まれたのでもなかった。  しかし土門はあえて文楽に絞ったのである。そこからきっと「未知の日本」と「揺動する日本」が見えてくることを確信していた。  実は、土門は見抜いていたのである。第301夜の有吉佐和子『一の糸』にも触れておいたように、この時期の文楽は分裂騒ぎのなか、名人たちが「最後の光芒」を放っていたのだった。その光芒は絶望的な光芒でもあり、また、まさしく「死ぬことと生きること」を問うた光芒でもあった。  たとえば、昭和17年1月の大阪文楽座での写真。ここには豊竹古靱太夫の櫓下披露の手打ち式が写っている。太夫の古靱太夫と三味線の鶴澤清六が紋下の床に坐り、人形遣いたちが舞台に並んでいる。古靱太夫と清六はのちに訣別する仲である。もし二人が訣別すれば、吉田文五郎と古靱太夫の顔合わせも見られなくなる。この写真には、その暗雲の予兆が無言に張りつめて、不気味な緊張を訴えている。  それほどの写真なのに、これらの文楽の写真はなんと30年をへて、昭和47年に 田中一光 の渾身の造本と構成によってやっと写真集になった。それまでのあいだ、「写された文楽」は土門の手元でじっと黙って眠っていた。ぼくはこの、土門にひそむ「時熟する待機」というものにも感服している。.

紙屋治兵衛 「天網島時雨炬燵」河庄の段. 中学高校時代を振り返ってみると,僕は人に対して,気軽に「死ね」や「殺す」という言葉を使っていた. 振り返ってみるととても怖いが,その時は別に何も考えていなかった.. 僕はそういう想いで生きているし, 「生命」の美しさを僕に遺してくれた彼らに恥じないように, 最期, 「俺は人生を生き切ったぞ!」 「いやあ,いろいろあったけど楽しかったわ!」 って報告して生命を終えられるように, 「生命を生き切れる社会」を創る.. 西芳寺庭園書院前 四半石.

土門拳の写真集では『江東のこども』と『室生寺』が好きだった。むろん『ヒロシマ』も『筑豊のこどもたち』も『古寺巡礼』もゆっくり見た。  見ていると、しだいにこちらの喉がカラカラになってくる。そこには名状しがたいほどの他を圧する力があったということだ。押しやる力ではない。求心力に似た引きこむ力なのである。最近、土門拳写文集なるものが小学館文庫から6、7冊出ていて、これは便利なのでときどき見ているのだが、文庫サイズになってもその力は変わらない。やはりすごい写真家だ。  では、その土門の何を採り上げようか。ちょっと迷ったが、あえて写真集をはずして、『死ぬことと生きること』を選んでみた。土門が車椅子で撮り始めてからのエッセイ集である。杉浦康平さんがこの本の装丁をしているときに、横で見ていたという因縁もある。.
  • 神護寺 紺紙金字一切経帙組紐蝶金具.
  • 交貨篇 夜 スーザン・ストラッサー 『欲望を生み出す社会』.

でも,彼らがその生命の大切さを教えてくれたなら,きっとその大切な生命を丁寧に生き切ることが,わからないなりの暫定解かなという気がしている. でも,僕だけが丁寧に生きてたらいいわけでもなくて, きっと僕の周りの人もそうだし,僕の周りにはいない見知らぬ誰かにもそうあってほしいと願っている.. 連環篇 夜 古賀登 『四川と長江文明』. 番外録 夜 レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』. 築地書館 そんな簡単に答えが出るような問いではないし,答えが見つかるかもわからない. しかし,きっと,いや間違いなくそうした体験は耐えられるようなものではないと思う. とても悲しくなるだろうし,あまりの悲しみに,この世界に対して絶望をするかもしれない. どうしていいのかわからない悲しみと,怒りと,そうした様々な感情に押しつぶされて,僕の生命がその先あるのかだって保証できない..

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〈大人の本棚〉 星野博美解説

連環篇 夜 古賀登 『四川と長江文明』. コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。. 土門拳とは会えなかった。会えなかった人などいっぱいいるが、しまった、会っておくべきだったと思う人が、そのなかにまた何人も何十人も、何百人もいる。エディターとしての日々を思い返しては、そういうことをよく悔やむ。土門拳はその一人である。時期からいえば会えなくはなかった。  大辻清司さんに「イメージとは何か」という話をしてほしいと言われ、ぼくが桑沢デザイン研究所の写真科の講師になったのは年だった。すでに内外のモノクロームの写真集を片っ端から見続けていて、自宅にはカメラマンを同居させていたし、自分でも写真を焼くのが好きだったので(撮るよりDPEが好きだった)、引き受けた。見続けた写真集はさすがに欧米のものが多かったが、浜谷浩・木村伊兵衛・土門拳などの大御所と、高梨豊・森山大道・沢渡朔らの新しい日本の写真もよく見ていた。  写真集というもの、見方があって、パラパラ見てはいけない。ゆっくり1ページずつを繰る。眼が止まったら、飽きるほどそれを見る。見終わったら、今度は少しスピードをあげて見る。パッとめくって、急に前の写真が気になりだすことが必ずあるだろうから、そのときは前を繰らないで、そっと頭の中でその気になる写真を思い浮かべ、そのうえでそこに戻る。こういうことをしたうえで、また最初からパラパラやる。お勧めだ。.

読書メーターについて

ドミニク・チェンが語る「千夜千冊とイン ターネットと発酵」〈中編〉. 一人めは,年5月. その年浪人を経て大学に進学した友人が,車の事故で亡くなったという連絡が後輩から入った. 大学に入学してまだ1ヶ月. 世間がGWの楽しさの最中,彼は命を落とした. 連絡が来た時の頭の真っ白さと言ったら,なんと表現していいものなのか,僕には未だにわからない. きっと彼の親も,世間が休みで浮かれている中,絶望に打ちひしがれたに違いない..

築地書館 有吉佐和子 『一の糸』 土門拳 『古寺を訪ねて』 土門拳 『死ぬことと生きること』 土門拳 『筑豊のこどもたち』 土方巽 『病める舞姫』.

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だから,僕は, 人々がちゃんと自分の心の声にアクセスできるように, 彼らの音色を奏でられるような場やコミュニティ を創るし, その土壌を整えるために, みんなで望む未来を考えられるような場 を開く.. 神護寺 紺紙金字一切経帙組紐蝶金具. それまであまり考えたこともなく,身近でもなかった「死」というテーマが,たった一年間のうちに,急にリアルになった. それまで当たり前のように使っていた「死ね」や「殺す」という言葉に恐れを抱き,ついには使えなくなった. それまで感じたことのなかった生命の重みが,少しずつ僕の中に芽生えてきた..

本書は冒頭に、「日本人としてのぼくは、どこの国よりも日本が大好きである。そして、日本的な現実に即して、日本的な写真を撮りたいと思っている」とある。ついでに米と味噌汁とコーヒーが好きで、パンと紅茶はダメとも、「 ぼくは正真正銘の東北人だ」 とも書いている。  これはまさしく土門の心情もしくは身上である。土門はつねに日本人であることを繰り返し強調していた写真家だった。『古寺巡礼』には、「ひとりの日本人の、みずからの出自する民族と文化の再構成の書であり、愛惜の書であるつもりである」とさえ綴っていた。綴っていたというより、そういう「心情=身上」の火を吹いていた。  こういうことは土門のどんな写真を見ても、すぐ伝わってくる。被写体が日本や日本人だからというのではなく、心の目がまさに日本になっていた。圧倒的な『室生寺』()など、そこに無数の日本が肯定的に凌辱されている。室生寺橋本屋の奥本初代さんの話では、昭和14年から撮りはじめて30年後に雪の室生寺を撮るまで、土門は40回以上にわたって当地を訪れていた。  カメラは室生寺が隠していたことまでを覗きこんでいる。カメラは光を待ち、呼吸を秘めている。カメラはいったん相手を掴んだら、雷が鳴っても相手を離さない。見ていると、さきほど言ったように、引きこまれ、ただただこちらは喘ぐだけになっている。こういう写真は日本の胸倉をつかむようにといえばいいのか、目で日本という対象をひんむいたといえばいいのか、ともかくそこには「日本」が誰も見たことのない息吹で躍如した。.

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コメントとフィードバック:
Kita 01.04.2020 02:09
僕はそういう想いで生きているし, 「生命」の美しさを僕に遺してくれた彼らに恥じないように, 最期, 「俺は人生を生き切ったぞ!」 「いやあ,いろいろあったけど楽しかったわ!」 って報告して生命を終えられるように, 「生命を生き切れる社会」を創る.. 西芳寺庭園書院前 四半石.
Misumi 31.03.2020 18:40
土門拳は昭和35年の51歳のときザラ紙で100円の定価で出版した『筑豊のこどもたち』を刊行すると、そのあと脳出血で倒れ、右半身が不自由になった。  これで土門はカメラを大型カメラに切り替える。そのなかで生まれていったのが『古寺巡礼』である。言葉による 和辻 の巡礼(第835夜)とはとことん異なった巡礼だった。和辻は眼で掴んだ古寺を綴ったが、土門は手で掴める古寺を撮った。  しかし59歳のとき(いまのぼくの歳であるが)、仕事先の萩でふたたび脳出血で倒れた。萩の乱だった。そのまま九州大学付属病院でのリハビリが1年間続いた。ついで長野の奥鹿教湯に転居した。誰もが再起不能を噂していたが、土門は不屈の力で蘇り、車椅子での撮影にがむしゃらに向かっていった。  こうして63歳のとき、30年の堆積を問うた『文楽』が駿々堂から発行されたのだ。みんな、万歳を叫んだものだ。それからである、本書が築地書館で準備され、杉浦康平が土門拳に「死」と「生」を書いてもらって、これを野に放ったのは。  みんなが、鬼はいまなお元気に遊んでいると知ったものだった。.
Nori 29.03.2020 14:10
現代に合わないルールやシステム,文化は未だに強く残っており, 納得できないし,したくないと思いながらこの世界を生きなければならないことが多い. システムが,生きづらさを感じる人をたくさん生み出している. 様々な常識や世間体,人との比較競争の末のあれこれ. そうした中で,本当に自分の生きたかった生命を生き切ることができるのだろうか.. 僕の周りでも, 本当にありたかった姿がわからないと悩む人, 本当にありたい姿はわかるけど,様々なしがらみの中でその姿にたどり着けていない人, などをよく目にする..
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