阿弥陀 三 尊像 法隆寺

発行者: 16.02.2020

この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男は年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、推古朝の作ではないとした [17] 。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、栗原朋信(年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した [18] 。藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・年の正倉院文書)、釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている [19] 。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した [20] 。.

脇侍の観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の 化仏 (けぶつ)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。.

現在、金堂内陣の須弥壇上には中央に釈迦三尊像、東に薬師如来像、西に阿弥陀三尊像を安置する。このほか、釈迦三尊像の左右に毘沙門天及び吉祥天像が立ち、須弥壇四隅に四天王像が立つ。『法隆寺大鏡』第一冊(年)によると、昭和戦前期の金堂には上述の諸仏のほか、 玉虫厨子 、橘夫人厨子(阿弥陀三尊像)、観音菩薩立像( 百済観音 )(以上国宝)、聖観音立像2躯、弥勒菩薩半跏像、普賢延命菩薩坐像(以上重要文化財)が安置されていたことがわかる。玉虫厨子以下の厨子や仏像は、年に大宝蔵殿が完成してからは、そちらへ移された。その後、昭和期には金堂北面には地蔵菩薩立像(国宝)と塑造吉祥天立像(重要文化財)が安置されていたが、これら2躯は大宝蔵院(上記大宝蔵殿とは別の建物)の完成後はそちらに移されている。.

西暦年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である [16] 。. 案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン. 案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン. 本三尊像の作者は、光背銘によれば司馬鞍首止利仏師、すなわち鞍作止利(鳥)である。止利の生没年は不明だが、祖父の司馬達等(読みは「しばだっと」「しめだちと」など)は『日本書紀』によれば継体天皇の時代に渡日した漢人(あやひと、渡来人)とされ、その出自は中国南朝の梁とも朝鮮半島の百済ともいう [14] 。いずれにしても、止利は渡来人の子孫ということになる。『書紀』に見える止利の最初の事績は、飛鳥寺の銅繍(銅造と刺繍)の丈六仏像の造仏工に任じられたことである [15] 。.

[62] 19 [63] 4 8 [64].

東院の所在地は聖徳太子の斑鳩宮の跡地である。皇極2年(年)、 蘇我入鹿 の兵による襲撃で斑鳩宮は炎上し上宮王家(聖徳太子の家)は消滅した。その跡地に天平10年(年)頃、 行信 によって建てられたのが東院で、夢殿はその中心になる八角円堂の通称である。. 東面は、『 維摩経 』に説く、病身の 維摩居士 (維摩詰)が見舞いに訪れた文殊菩薩と問答を繰り広げる場面を表したもの。像高は維摩像

法隆寺五重塔の初層は、須弥壇上に、心柱とその周囲の四天柱を覆い隠すように塑土を盛り上げて壁を築き(これを中国では「塑壁」という)、山岳とその中の岩窟のような形を造っている。これを背景として、東西南北の4面に多数の塑像を配置し、仏教説話の場面を構成している。各面の主題は、北面が釈迦の涅槃の光景、西面が舎利(荼毘に付された釈迦の遺骨)の諸国への分与の光景、南面は弥勒仏の浄土、東面は『 維摩経 』に説く、 維摩居士 (維摩詰)と 文殊菩薩 の問答の場面である。以上の4場面に計90躯以上の塑像があり、後補の像を除いた80点(78躯2基)が国宝に指定されている。80点の内訳は、北面が32躯、西面が29躯と金棺1基、舎利塔1基、東面が16躯。南面はほとんどの像が後補で、弥勒仏像1躯のみが国宝になっている。五重塔の昭和修理時の所見では、創建当初は須弥壇が現状より狭かった。創建後しばらくして(50年以内という)、心柱の根元が腐朽したため修理が行われ、その際に須弥壇を改造して広げたものとみられる。この改造以前には現存する塑像をすべて配置するだけのスペースはなかったとみられ、一部の像は改造時に追加された可能性がある。 [65].

現在、金堂内陣の須弥壇上には中央に釈迦三尊像、東に薬師如来像、西に阿弥陀三尊像を安置する。このほか、釈迦三尊像の左右に毘沙門天及び吉祥天像が立ち、須弥壇四隅に四天王像が立つ。『法隆寺大鏡』第一冊(年)によると、昭和戦前期の金堂には上述の諸仏のほか、 玉虫厨子 、橘夫人厨子(阿弥陀三尊像)、観音菩薩立像( 百済観音 )(以上国宝)、聖観音立像2躯、弥勒菩薩半跏像、普賢延命菩薩坐像(以上重要文化財)が安置されていたことがわかる。玉虫厨子以下の厨子や仏像は、年に大宝蔵殿が完成してからは、そちらへ移された。その後、昭和期には金堂北面には地蔵菩薩立像(国宝)と塑造吉祥天立像(重要文化財)が安置されていたが、これら2躯は大宝蔵院(上記大宝蔵殿とは別の建物)の完成後はそちらに移されている。.

以上のように、阿弥陀三尊像自体は鎌倉時代の作だが、その下にある木造台座は、その一部が飛鳥時代のものである。この台座は、金堂「中の間」釈迦三尊像台座や「東の間」薬師如来像台座と同形式で、台脚部の上に箱形を2段に積み上げた形のものである。下段の箱形(下座)に比し、上段の箱形(上座)は一回り小さくなっている。このうち、下座のみが飛鳥時代の作で、上座は鎌倉時代に追加された。下座は請花と反花がクスノキ材で、他の部分がヒノキ材。上座は反花も含めすべてヒノキ材である。上座・下座の四面にはそれぞれ彩色の絵画がある。下座の絵画は現状では剥落が激しく、肉眼では図様を確認することはほとんど不可能であるが、山岳、樹木、飛天、四天王などが描かれ、全体としては須弥山世界を表すものと考えられている。下座正面は山岳と2体の飛天が描かれ、背面は山岳を描く。側面は左右とも2体ずつの天部像を描き、合せて四天王を表したものと思われる。上座の絵画は下座と作風がまったく異なる、鎌倉時代の作品である。上座正面は補陀落浄土図、背面は五台山文殊図、東側面は霊鷲山図を描く。西側面の図は、雲上に黒衣の僧が乗り、合掌する姿が描かれている。僧が西方極楽浄土へ向かうところを描いたものであるが、通常の「来迎図」と異なって図中には来迎する阿弥陀如来の姿は描かれておらず、この僧は自力で台座上の阿弥陀如来のもとへ向かっているものと解釈されている。 [41].

以上の観音像3躯は、年(明治35年)に「金銅誕生釈迦仏立像一、金銅観世音菩薩立像五」の6躯一括で重要文化財(当時の旧国宝)に指定されたものである。誕生釈迦仏と観音像のうち2躯は指定の翌年に盗難に遭い所在不明で、寺に残るのは観音像3躯のみ [] 。所在不明の3躯の写真は『国宝・重要文化財大全』(毎日新聞社)に収録されている。. インド 中国 日本. 案内 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード ウィキメディア・コモンズ.

335623 [] 3. [14] [15]. 11 [] 3 [] 44 [] 402 [] .

博物館ディクショナリー

表示 閲覧 編集 履歴表示. 東天蓋は屋根上の銘文から天福元年(年)の作であることが明らかである。全体の構造、デザインは中天蓋・西天蓋とほぼ同じである。奏楽天人像は下の吹返板のみに取り付けられ、14体中の10体が残っている。鳳凰像は14体中の10体が残る。中・西天蓋に取り付けられていた金銅透彫金具は、東天蓋ではすべて省略されている。 [50].

冒頭に「一記録金銅仏像事」とあるとおり、これは金銅仏の目録で、木彫仏については「木仏」と注記されている。この目録では「東壇」(東の間)の仏像が「釈迦三尊」となっているが、これは「薬師三尊」の誤りで、4年後の永保2年(年)の目録では「薬師」に訂正されている [36] 。この目録によれば、11世紀末の時点の金堂内の状況は次のようであった。「西壇」(西の間)には、鎌倉時代以降は阿弥陀三尊像が安置されているが、当時(11世紀末)は「小仏18体」があった。堂内には「後東厨子」「西厨子」「中大厨子」という3つの厨子があった。このうち中大厨子は現存しない。他の2つについては、鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』(仁治3年・年頃)に詳細な記録があり、それと照合すれば、「後東厨子」が現存する 玉虫厨子 、「西厨子」が現存する橘夫人厨子にそれぞれ該当することが明らかである [37] 。「中大厨子」は上下2層に分かれ、上の段には小仏46体があり、うち1体が木造(したがって、他の像は金銅)、他に釈迦の誕生仏が3体あるが、うち1体は頭部を欠く。厨子の下の段には飛鳥の橘寺から移された小仏44体があり、他に木造仏8体があった(「本仏」は「木仏」の誤写と解釈されている)。橘寺から移された仏像はもとは49体あった。以上のように、11世紀末の金堂には体以上の小仏像があった。.

9 [3] 7 [4]. 320 UTC - Cookie. [21] 930 8 [29].

他言語版 リンクを追加. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 名前空間 ページ ノート. 表示 閲覧 編集 履歴表示. 観世音菩薩 大勢至菩薩 薬王菩薩 薬上菩薩 普賢菩薩 法自在王菩薩 白象王菩薩 獅子吼菩薩 陀羅尼菩薩 虚空蔵菩薩 徳蔵菩薩 宝蔵菩薩 金蔵菩薩 金剛菩薩 山海恵菩薩 光明王菩薩 華厳菩薩 衆宝王菩薩 月光王菩薩 日照王菩薩 三昧王菩薩 定自在王菩薩 大自在王菩薩 大威徳王菩薩 無辺身菩薩.

14101410 [50]? 2 10. 222 [41]! 320 UTC - Cookie. [8]. [2] [3] .

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コメントとフィードバック:
Mikazuki 22.02.2020 03:01
上記銘文の内容を文字通りに受け取れば、本像は年の制作ということになるが、 福山敏男 は年の論文において、薬師如来像光背銘(以下「薬師銘」という)は推古朝(6世紀末から7世紀初)の作成ではありえず、天武朝後半以降、天平以前(7世紀末から8世紀初)に、坂田寺の縁起を模して作成されたものだとした。福山説の主たる根拠は、「天皇」の呼称の使用は大化( - 年)以降であり、推古朝には用いられていなかったこと、日本における薬師信仰は天武朝(年 - )以降に広まったものであることなどである。大橋一章は、舒明天皇11年(年)建立の百済大寺( 大安寺 の前身)が日本最初の勅願寺であるとしたうえで、用明天皇の時代に勅願寺の建立はありえず、この点だけでも、薬師銘の信憑性を疑うには十分だとしている。薬師銘が何の目的で作文されたのかについて、大西修也は次のように論じている。 1 年の火災後、再建を図っていた法隆寺では、国家や皇室からの支援を得るべく、同寺が創建当初から天皇発願の勅願寺であったかのような銘文を創作した。それが薬師銘である。 2 薬師銘は 飛鳥寺 の縁起をモデルにして作成された。飛鳥寺の縁起をモデルにしたのは、同寺がもともと蘇我氏の私寺として出発したものでありながら、官寺に準ずる扱いを受けていたので、これに倣おうとしたためである。 3 飛鳥寺の縁起をモデルにしつつ、飛鳥寺よりも発願の時期や仏像の完成時期が古い縁起を創作し、縁起のいわば「格上げ」を図った。具体的には、飛鳥寺の建立が用明2年(年)、 蘇我馬子 の発願によるのに対し、薬師像の発願は1年古い用明元年(年)とされており、飛鳥寺本尊が推古17年(年)完成(『元興寺縁起』)であるのに対し、薬師像の完成は推古15年(年)とされている。 [28]. 西面は『 大般涅槃経 』に説く分舎利(釈迦の遺骨の分配)にかかわる場面である。釈迦は入滅後、荼毘に付されたが、その後、諸国の王や部族が釈迦の遺骨(舎利)の分配を主張した。『大般涅槃経』によれば、ドーナという婆羅門の調停により、舎利は8つに分けられ、平等に分配されたという。西面の塑像群は、金棺、舎利塔と29躯の人物像からなり、これらは階段状に4段に配置されている。金棺の高さ
Jun 24.02.2020 11:43
木造毘沙門天立像・吉祥天立像 として国宝に指定。平安時代(年)。金堂本尊の釈迦三尊像の左(向かって右)に毘沙門天像が、右(向かって左)に吉祥天像が立つ。木造彩色で、像高は毘沙門天が
Etsuko 19.02.2020 10:25
善光寺式阿弥陀三尊の元となった、 信州善光寺 の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(本堂の瑠璃壇内部に安置)は、「絶対秘仏」である。 『 扶桑略記 』の中の「善光寺縁起」などによれば、中尊は一尺五寸(約50センチメートル)、両脇侍は一尺(約 表示 閲覧 編集 履歴表示.
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